なんでも生きてるうちがいい

ゆるく生きる

こんばんは、るす子です。

 

ああ、今日もとっても暑い。もう鳴き声かのように口から出てしまいます。

 

今日は、年に1度、お盆時期にだけ母の仏壇に手を合わせにきてくれる叔母から連絡がありました。
お盆を過ぎてしまったけどお参りがしたいと。

 

母は5人兄妹の末っ子でした。
つまり、母関係の親戚は皆、母より年上でもれなく高齢。
今年はコロナのこともあり、全員等しくお断りをしているので、叔母にも気持ちだけで、と伝えました。

 

こうして、母の仏壇に手を合わせてくれる叔母も叔父も、その気持ちはとてもありがたい。
でも、生きているときには年に1度も顔を合わせたりはしなかった。
別に不仲だったわけじゃないし、みんな近所に住んでいるのに。
それぞれに関心が薄かったという感じなのかもしれない。

 

でも、死んでからこうして毎年時間を作って手を合わせに来てくれる。
ありがたいんだけど、その気持ちは嬉しいんだけど、こうして死んでから訪ねてくるよりも、生きているとき時間を作って会っていた方が良かったのに、とも思ってしまう。
なんだか日本人って、生きてる間より、死んでから相手に時間やお金をかけるなぁ、と。
いや、外国ではどうかわからないんですけど。

 

わたしは、薄情なんですが、死んだら終わりだと思っていて、天国とか地獄とかにもあまり興味がないのです。
鬼灯の冷徹は読んでいたけど。地獄のおはなし、おもしろかったけど。

葬式も法事も墓参りも、生きている人間側の気持ちの整理だと思ってる…というか、思うようになった、というのが正しいのかも。

 

母が死んでから3年間、月命日には団子を作り、お墓に通い、『母』という人間についてすごく考えてた。
おかげでわたしは『母』との関係を死後に拗らせてしまい、幼い頃の、無条件に母が大好きだと言えていた気持ちを失ってしまったけど、それはそれで、自分の整理に必要だった時間と行動だったとも思っていて。

 

で、完全にすっきりしてしまった今、思うことは、死んだ人より生きてる人の方が大切だし、大事にしたいなぁ、ということ。
…いや、文字にするとほんとに薄情だなぁ。まあいいか。薄情だし。

 

まあ、これはわたしが勝手にすっきりして、わたしが勝手に感じている事なので、もちろん他人に強要はできないし、こっちはもうそういうの要らないからお参りには来ないでくれ、なんて言えません。
来てくれる人は、わたしじゃなくて『母』に会いにきてくれているわけだし。

 

でも、それが義務感なら、ただ「盆だから」「命日だから」という気持ちなら、遠慮しないでその時間は好きに使ってくれ、と思ってしまうのです。

その代わり、会いたいときに、会いにきてほしい。わたしに。父に。
わたしにも父にも別に会いたくないなら、訪ねてこなくてもいいのです。

だって、結局お参りに来たって、話をするのはわたしと父とで、もう母も死んで12年にもなれば思い出話が出るわけでもなく、互いの近況を話したりするんだから。
わざわざ楽しくない時間を過ごしにこなくてもいい。
会いたかったら連絡をくれればいい。
義務感で盆に来なくていいよ。普通に会いにきてくれよ。と思ってしまうのです。

 

従兄弟たちもそう。
「母の言われたから代わりに行きます」「家を代表して行きます」ってきてくれるけど、そんな「お盆だから行かなきゃ」「命日だから行かなきゃ」みたいな義務感で来られるのはちょとしんどい。

あまり付き合いのなかった親戚の家にお参りなんてきたくないんじゃないか。
その休みは家族で遊びにいくのに使ってくれないか。
果物もお菓子ももう母は食べられないんだから、子供と美味しいものでも食べてくればいいじゃないか。
って、そう思ってしまうんですよね。

 

まあ、『お盆』とか『命日』とか、そういうきっかけでしか繋がれないくらいの繋がりだからこそ、この機会を大切にしてくれているのかもしれないけれど。

 

こういう、人と人の付き合いって、難しくてめんどくさい。
でも、完全になくなってしまったらそれはそれで寂しいんだろうか。どうなんだろうか。

 

なんてね、ブログだからこんなことをつらつらと書いてしまったけれど、実際はね、死んだんだからもういいよ、とか、言えないですけどね。

 

なんだかふんわりと考えてしまう一日。
でも、今日連絡をくれた叔母夫婦の事を、わたしはとても好きなんだ。
コロナが落ち着いたら、会いたいなぁ。母を抜きにして。会いたいんだけどなぁ。

 

 

今日はここまで。
それでは、またあした。

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